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* 第6話 ギミックだけじゃ終わらない *



 ときおり幽かに潮騒のような音がしている。
 藤女が寝返りを打つとまぶたを月明かりがなでた。深呼吸をして目をあけ、ベッドリネンの間にいるのが自分だけだと知ってペントハウスの主の姿を探したが見つからない。
 仕事に戻ったらしい。こんな夜更けにまた事件か。
 風通しのため開いたままになっている寝室のドアの向こうから、廊下の壁に反射した高速道路を走る車の音が聞こえていた。潮騒だと思っていたのは車の通り過ぎる音だったのだ。眠りを妨げるものではなく、遠く霧に煙ったような真夜中の生活音。
 藤女は、高層マンションのこの部屋で人間の作り出す音に身を任せるのが好きだった。
 部屋の主が仕事に戻ったあとでひとりになったとしても、世界にはまだ起きている誰かがいて活動しているんだ。決してひとりじゃない。望めば地上へ降りてその活動に加わることも、部屋の主を探しにゆくこともできる――。
 少しずつ覚醒しだした頭でそんなことを考えていた時、軽やかなパソコンのビープ音に続いてマウスをクリックする音が聞こえて完全に目をあけた。
 ……なんだ。捜査局に戻ったんじゃなかったのか。
 この部屋の壁の向こう側、テラスルームに彼がいる。そう気づいただけでいてもたってもいられなくなった藤女は、ベッドから身を起こすとひやりとした石の床に素足を進めた。
 廊下に出ると、広いリビングを通ってそのとなりのテラスルームとを仕切っているガラス戸へと近づく。
 デスクトップのモニタに見入っているらしい白いTシャツの背中。天井まで伸びた大きな窓の外に広がる眠らない街に目を奪われたまま、背後にそっと忍び寄る。
 あと1歩踏み出して手を伸ばせば触れることができる距離まで近づいた時、すっと左手が上がった。
「起こしたか?」
 いつもと変わらないバリトンを聴いて、藤女の肩が下がる。
「なんだよ……驚かせようと思ったのに」
「奇襲攻撃には向かないな。モニタにしっかり反射してる」
 白いTシャツの背中のままで言う。
 藤女はきゅっとくちびるを尖らせ、右手で彼の肩を引き寄せた。
「あたしと話をする時は、顔を見ろって言っただろう」
 返事を訊かずに彼の身体をデスクから押しのけ、タップパンツの脚でひざにまたがった。
 腰を落とし、Tシャツの両肩に腕を置く。コットンのタンクトップの胸をわざと押しつけた。
 相手は、おいおい、というように眉を上げてみせたが抗わない。
「顔を見るだけでいいのか」
「だめ。キスも」
 双方から近づいてくちびるを重ねる。
「……朝までこうしていようよ」
 藤女の要求に、男はふっと笑ってもうひとつキスを落とした。
 くちびるが離れた瞬間、ピッと控えめな音がしてモニタに小さなウィンドウがあらわれた。すかさず彼の視界を遮るように、藤女が肩を揺らす。
「どうした、眠れないのか? 子守唄なんか歌ってやれないぞ」
 藤女のタンクトップの背中に腕を回して両手を組みながら彼が訊く。声に笑いを含んでいた。
「こんなに近くにいるのに、おまえの意識を独占できない。どんなまじないをすれば、あたしに夢中になるんだ? なあ……」
 ゆっくりと首を前に傾かせ、藤女がくちびるを近づける。
 ぐっと身を倒して首にくちづけ、そのまま下がって男ののどぼとけを甘噛みする。
 二人分の体重を受けて椅子が軋んだ。
 しばらくされるままになっていた男は、やがてタンクトップの下のなめらかな肌を引き寄せ、右腕でしっかりと自分に密着させたまま左手でマウスをクリックする。
「哲笙」
 抱きしめられたまま、藤女のしなやかな身体がいやいやをした。
「この体勢で動かれたら集中できないからじっとしてて」
 言いながらマウスを操っている、くやしいくらいに落ち着いたその声に、藤女は眉を寄せてくちびるを噛んだ。
「うそばっかり」
 軽やかなクリック音はまだ続いている。
「仕事に集中してるからって、きみが俺を独占してないなんて、だれが言ったんだ?」
 哲笙はやっと右腕の力を抜いて身体を離し、上目づかいで藤女の瞳を覗き込む。モニタの明かりが反射したせいで、深い色の目がきらめいた。
 どうすればこの男を独占できるのか――永遠へとつながるパズルのピースを探し始める藤女の背中を、目に見えない電流が下ってゆく。
「……じゃあ気の済むまでそれを教えてほしい」
 今すぐここで、という彼女の語尾はかすれて哲笙の白いTシャツの胸元に落ちていった。
 最後のクリック音が響き、とび色の瞳が何かとせめぎあうように細くなる。真実をいえば見せかけだけのせめぎあいだ。
 哲笙にとってせめぎあいは単なるギミック。藤女が相手ならそのギミックは甘い蜜と同じ役目を持つ。
 こうして時間かせぎをしているうちに、相手が焦れるのを待つ。焦らせば焦らされただけ蜜は甘くなる。
 本当の愉しみはそれなのだということを、黒曜石のような瞳をしたこの女性は知っているのだろうか、と哲笙は考える。
 ――その刻はすぐにやってきた。
「他のことが頭に入らなくなるくらい夢中だってわからせて。おまえになら、なにをされてもいい」
 つややかな瞳で彼を見下ろし、藤女が告げる。
 委ねるような物言いとは裏腹に、明確な意志を宿した眼差しだった。
「仰せのままに――」
 哲笙が答え、椅子が密やかに軋んだ。もどかしくなるくらいゆっくりと手が上がる。
 熱を含んだ左利きの指先が藤女のくちびるをなぞった瞬間モニタの電源が落ちて、あたりは月光に包まれた。

 

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