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* 第9話 HOME SWEET HOME *

 

 負け試合だった。
 ……しかも、相手チームのディフェンスが動かしたスティックのブレードが運悪く眉に当たって切り傷までもらった。
 大した怪我じゃないし、顔の傷なんてもう数えきれないほど作ったけど、負け試合の時はいっそう堪えるから厄介だ。
 そのうえ、チーム所有のジェット機に乗って地元に降り立ってみれば、シカゴの空にはぼたん雪が舞っていた。空港の入り口に建っている電光表示板には−9℃の文字。
 1月、2月が寒さの底とはいえ、こんな天気が4月まで続くのかと思うと、北海道も顔負けの亜寒帯地域に住んでいることが心底うらめしくなる。
 銀がかった視界をワイパーでばさばさかき分けつつハイウェイに乗り、空港から10分と離れていないアパートの地下駐車場に乗り入れた。
 シカゴは雪が多いから、住むならできるだけ空港に近いほうが便利――シーズンオフになれば日本に移る生活になってすぐのころ、真雪に言われたときは正直、よくわからなかったけど、何年も暮らした今ならはっきり言える。
 ほんとうにそのとおりだ。
 雪だけじゃない、風も雨も陽射しもケタ違いに強烈なこの土地では、自然に逆らわず生きていくのがいちばん賢い生きかたなんだろうな。
 アパートの地下駐車場からエレベーターに乗り込み、自宅のフロアで降りる。
 ポケットのカギを取りだして鍵穴に差し込み、がちりと音がするまで回す。
 カードキーやタッチレスキーなんて洒落たものはない。でも不都合もなかった。
 スニーカーの靴底をドアマットできれいにして、タイル敷きの玄関に入る。ふわっと暖かい空気が頬にふれた。
 ドアを閉めて、チェーンをかける。
 耳に届くのは、こども用のCDの音楽だ。『ロンドン橋落ちた』とか『きらきら星』なんかの英語の童謡がたくさん入ってるやつ……きっと今日みたいな雪の午後には真雪がエンドレスで流しているんだろう。
 楽しそうなメゾソプラノにつられて、りんりん、という何かのおもちゃの楽器の合いの手が聞こえた。
 スニーカーを脱いでシューズクロゼットに放り、羽織っていたダッフルコートもハンガーに掛けた。
 洗面所に直行すると、液体ソープで手を洗ってからうがいをする。
 液体ソープのボトルに、アメリカのこども番組で人気のヒーローのステッカーが貼ってあるのを見て笑ってしまった。
 ふかふかのタオルで水気をぬぐっていると、たたた、と廊下を駆けてくる足音がして、すぐにジーンズの腰のあたりに小さな腕が伸びてきた。
「――パパ! おかえりなさい」
 赤いレプリカジャージを着た小さなホッケー選手の柔らかい髪をなでてやる。
「ただいま。今日はどうしてた?」
「雪で幼稚園がお休みだったから、ずっとサニーとリディアが遊びに来てたの。お歌も歌った」
 サニーとリディアというのは同じアパートに住んでいる近所の子たちだ。いっしょに幼稚園に通うだけじゃなく、ときにはお互いのアパートに遊びに来たり行ったりもする。
 小さなホッケー選手はそこではじめてこちらの顔を見上げ、目を丸くした。
「けがしたの?……痛い?」
 眉に貼られたH型の絆創膏は、傷の深さより見た目のインパクトのほうが断然大きい。だからいらないって言ったのに、怖い顔をした男性ナースに有無を言わさず貼られてしまった。
「ぜーんぜん。明日には取れちゃうからだいじょうぶ」
 小さな右手をつないで、リビングへと続く淡いベージュのカーペットが敷いてある廊下に出た。
 タテ型ブラインドを全開にしたリビングの窓には一面の雪景色。小さなこどもがいるから暖炉のない部屋を選んだけど、セントラルヒーティングでちょうどいい暖かさに保たれている。
 リビングから一段上がったところにあるダイニングには、長方形の出窓を背にカウンターつきのアイランド・キッチンがついている。外の窓枠に白い雪がこんもりと降り積もっていた。
 野菜や肉の、とろけるような香りがあたりに漂っている。
「いいにおーい」
 カウンターの前に置かれた背もたれつきの椅子に、幼いホッケー選手を抱きあげて座らせる。ふたりで並んでコンロのほうを覗きこんだ。
「ほんと、すっげぇいい匂い」
「おかえり」
 背中まで伸ばしたウェーブのある髪を小さなスカーフで束ねた真雪がこちらを振り向いた。ゆったりしたフューシャピンクのセーターにチャコールグレイのレギンス。
 春が終わるころには生まれる予定の二人目を楽しみに待っているのが、ばら色の頬からうかがえる。
 以前は大学で日本語講師をしていた真雪は、今は地元の日本人コミュニティを中心に通訳や翻訳をしている。それ以外にも、NHL選手の奥さんやガールフレンドで構成される団体で役員を務めたりボランティア活動を手伝ったりと忙しい。
 きっと今日もNHLのライブ動画で試合を見ていたんだろう。それでも試合の内容には一切ふれず、代わりにいたずらっぽく笑った。
「あら……やられたわね」
 ここ、と、自分の眉を指してみせる。
「うん、やられました」
 素直に認めて苦笑した俺につられたのか、困ったように眉を下げた。
「さ、用意ができましたよー。今日はね、ビーフシチューなの。食べたらきっとぽかぽかになって元気が出ちゃうわよ」
 わーい、という朗らかな声があとに続いた。
 湯気のむこうに立ってほほえんでいる真雪を見たら、見えない糸からすうっと開放されたような気持ちになった。
 明日は久しぶりのオフ。  
 雪はまだまだ止む気配がない。
 だけど気持ちは軽く、明るくなっていた。  

 

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≪管理人のつぶやき≫
『ハートランド』、ふたりのその後です。