楽園の果報者


     

 珍しく日暮れ前に帰宅し、ドアを閉めたところで電話が鳴った。
「もしもし」
『哲笙か? 俺だ、俺だ――林(リン)』
 早口のクカ語だった。
 もともと台湾語で育った彼はクカ語を話すときに心持ちスピードが早くなる。まるで、早口で喋ることが流暢なのだとでも言うように。
「おう、しばらくだな。あいかわらず売れっ子じゃないか。見たぞ、この前の『アジアン・ビジネス』」
 先週発売されたばかりのビジネス情報誌に載っていたコラムを思いだして、哲笙は言った。
 これから注目されるべきエレクトロニクス各社の最新製品やビジョンなどを分かりやすく説明していた記事だ。
『ははは、まあな。本当は台湾系列の雑誌のほうがつてが多いんだが、頼まれちゃったからね。ま、たまにはいいだろ、ああいうのも。でさ、ちょっと時間とれないかな、明日にでも』
「俺も暇は少ないほうなんだが……おまえの頼みなら聞かないこともないな」
『もったいぶるなって。このまえ言ってたアレだ――チケット』
「手にはいったのか?」
 声に驚嘆が混じった。
 同僚に泣きつかれて、仕方なく林に頼んだコンサートのチケットで、日本人の有名なバイオリニストとその妻であるイタリア人オペラシンガーのリサイタルだった。
 正規のルートでは発売直後に売り切れで、これはその追加分だという。それでも、こうして業界に知り合いでもいないと手に入らないほど希少だ。
「無理を言ってすまなかった。苦労しただろ」
『大した苦労じゃねえよ。その代わり、いつか俺がヘマした時は面倒みてくれよな』
「なんだ、そんな予定があるのか」
 哲笙は自然と笑い声になった。
 コラムニストの他に企業コンサルタントもしている林は、これから大手企業のトップと面談だと言う。
 高校時代の友人を通じて知り合った彼は、哲笙にしては珍しく完全なプライベートでのつきあいしかない。
 哲笙はチケットを手渡してもらうための場所と時間を指定して、短い電話を終わらせた。

 

 約束のコーヒーショップに行くと、林はまだ来ていなかった。
 トールのエスプレッソをテイクアウトで頼んで、窓際のカウンターに腰を降ろすと、ガラス窓の向こうを林の痩身が横切るのが見えた。
 鎖骨までありそうな黒髪を後ろでひとつに束ね、縁の細いメガネをかけている。
 きちんとすればそこそこ見られる容貌のはずなのに、あまり外見にはかまわないタイプのようで、それが必要以上に野暮ったい印象を与えていた。
 ナイロンの黄色いパーカとジーンズを着込んだ林は、店に入ってくるとすぐに哲笙を見つけて近づいてきた。
「なんだ、スーツなんか着ちゃって、勤務中か?」
「コーヒーぐらい飲まないと体がもたないよ。悪かったな、オフィスから遠いところに呼び出して」
「かまわないさ。コレ、忘れないうちに渡しておくぞ」
 林はパーカの内ポケットから長方形の封筒を取り出してカウンターの上に置いた。
 それから片方の眉をつりあげるようにして哲笙の顔を見る。
「でも、オドロキだな。久下がこういうところへ行きたがるなんてさ」
「……どういう意味だよ?」
「そのコンサートは、うーん、何ていうか……女連れでないとカッコがつかないっていう、そういう場所だぞ。今までおまえさんの口からそれらしき名前すら聞いたことがねえから、ちょっと想像がつかないってこと」
 そういわれてみれば、林には何も話してなかった。
 いや、訊かれなかったから話さなかったというべきか。
「俺に女がいたらそんなに妙か」
「いや、そうじゃねえよ。こういうのがしっくりこねえな、って、それだけ。もっと、淡白なつきあいのほうがいいのかと思ってた」
「淡白ねえ……」
「離婚してから本気でつきあうのが嫌んなったとか考えてないよな」
 無邪気に訊ねてくる林に、過去が今更関係ないことは判っていても、なぜかすぐには答えられなかった。
「俺だったらほら、彼女の話とかすぐしちゃうだろ。でもそっちはどこか引いてるとこあるからさ。まだつきあい短いのかと思って」
 林の言葉の中で何がひっかかったのか考えているうちに、スーツのポケットの携帯電話が鳴った。
「はい、久下」
 カルティニだった。東中環で台湾系グループの抗争があったらしい。
 何が起きたのかおおまかに把握できるまで話を聞いて哲笙は電話を切った。
 まだすこし温かいエスプレッソのカップと封筒をカウンターから拾い上げると林が言った。
「コンサートの時にでも声かけろよ、紹介するから」
「そうしたいところだけど、実はさ、このチケット同僚に頼まれたんだ。そいつも感謝してると思う。林、おまえがいてくれて助かったよ」
「なんだ、そういうわけか」
「じゃ、またな」
 哲笙はイスから立つとドアを開けて、夕暮れがすぐそこまで迫った通りへと出て行った。  

 

 


WEB拍手のお礼に載せていた小話です。
Deleted scenes from Rakuen-Cyayaと銘打っていたとおり、本編を書きながらボツッたシーン。