>>NOVELS >>INDEX >>BACK >>NEXT

風の街で待ってて

8.星の抱きしめかた教えます

 

 

「――なにそれ? よく殴らずにいられたわね、多佳子」
 ぐっと拳を握るシェリルに圧倒されて、持っていた紙のカップごとちょっとのけぞる。
「まあ……最初は、なんで?って思ったけど……でもほんとに、ひとりじゃ何もできないし……よく考えたら当たってるところもあるの」
 クラスが終わってから彼女を誘って寄った、通りの向かいのカフェ。
 シェリルはひとしきり何やら唸ってから、はあ、とため息をついた。
「彼がいないとアメリカじゃ何もできない? そんなの当たり前! 自分の育った国じゃなかったら、みんなそこからスタートするでしょ? 大事なのは、吸収していくことよ? 多佳子はそのプロセスにいるのよ? わかってるんでしょ」
「……うん」
 カウンター席のスツールに並んで腰かけて、暗くなった車道を見つめる。
「だいたい、おかしいじゃない。日本人が日系アメリカ人とつきあって、なにがいけないの? いーじゃない、おんなじ民族で仲良くしてどこが悪いのよ、ねええ?」
「う、うん、そうね」
 妙な説得力のある言葉に押しきられる形でうなずいた。
「上に立ちたいとか、だれかを強引にコントロールしたいと考えてる人間なんてどこにでもいるのに、どうして多佳子やわたしみたいな者だけが、えーと……貧乏クジ、ひいたって言われなきゃならないわけ? いっしょにいると偏見の目で見られて、うまくいかないことがあると『ほらやっぱり!』って言われるなんて、不公平だし狭い考えかただわ」
 モカをひとくち飲んで、シェリルは憤ったようにまた口を開く。
「くやしいけど、どこへ行っても耳にする問題かもね。世の中にはまだ、自分と違うひとたちを怖がったり珍しがったりするひとがいるから……わたしも興味本位で訊かれたことあるもの」
 そう言って鼻にしわをよせた。
「すごいわよー、けっこうちゃんとした仕事についてるひとでもマジメに訊いてくるんだから……『旦那さんと抱きあう時は何語ですか?』とか」
 飲んでいたラテをのどに詰まらせそうになって、咳払いでごまかした。
「ほんとよ。ひどいでしょ?」
 いたずらっぽくウィンクを返される。うすくアイシャドーのひかれたまぶたが、きれいだった。
「でも、日本じゃたいていのひとは好意的。『大変ですね』って言ってくれる……不思議だわー、大変なことは別にわたしとダーリンが作り出してるわけじゃないのにぃ」
 陽気な声だった。
 きっと、もっとイヤなことも言われてるかもしれないのに。
 明らかに日本人とは違う外見のひとたちは、それはそれでまた別の苦労があるはずだ。
 強いんだなぁ、彼女。
 素直にそう思えた。
「でもその彼女……」
「ん?」
 シェリルはまっすぐ窓の外の街灯を見つめていた。
 そして、いくぶん残念そうな瞳になって口をひらく。
「アメリカで、英語以外になにをお勉強してきたのかしらね?」

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 12月に入ると、寒さも本格的になってきた。
 オフィスでは、廊下をはさんで向かいにある資料室の半分を社員のロッカールームとして使っている。
 ショートコートをハンガーにかけながら辻さんと顔をあわせたのは、そんな部屋の一角だった。
 姿を認めた瞬間、またあなたなの、という顔をされた。
 ……最近になって気がついたけど、このひとは感情を表に出すのがうまい。
 わたしが気まずい思いを悟られまいと平静を装っているうちに、胸がチクリとするような表情を作って目を逸らす。
 まるでわたしへのダメージをきちんと見て計ってるみたいに。
 くやしいわね。
「あの、このあいだのことですけど……」
 くやしい気持ちを抱えたまま、彼女の背中に向かって話しかけた。
「辻さん、わたしのこと誤解してるみたい」
「は?」
 コートを脱いでハンガーにかけていた辻さんは気の抜けた声を出した。
 そこでやっとわたしを振り返る。
「ちゃんとはなし聞いてくれてなかったみたいだし、もし誤解されてるとしたら……そういうの、困るんです」
「誤解? 事実に基づいたことですよ? 留学生活で、あなたみたいに典型的な日本人はイヤってほど見てきたんです。アメリカ人のワガママにつきあわされて、もてあそばれて泣いてるひとも――」
 辻さんは淡々とした口調で話し出した。
 比較的おとなしい日本人には、自己主張がなかなか身につかないまま苦労するひとも多い。
 恋愛関係でもそれは同じ。
 最初はみんな申しあわせたように幸せそうで。
 ロマンティックな英語の魔法にかかったように、大恋愛をしてると思いこまされる。
 だから、休みのたびに遊びまわっていてもそこそこの成績がとれる地元の学生と同じように行動していると、ひどい目にあう。
 不満があってもうまく口にできないせいで金銭のトラブルに巻きこまれたり、学業不振で強制送還になる仲間を何人も見た、と辻さんは言った。
「小さなころから徹底的に個人主義をたたきこまれてるアメリカ人と違って、日本人はすぐ周りに合わせようとするから恋愛でも上に立てない。そういう国民性につけこんで近づいてくるひとたちが、たくさんいるんです」
 ……あら、なんだ。
 なぁんだ。
 そういうことだったんだ。
 気がついたら、ほうっと体から力がぬけて、ふっと息がこぼれ出て――笑ってしまった。
「……なにがおかしいんですか」
 辻さんがすごい顔でわたしを睨んだ。
 余裕がなくなったのかすこし震えたその声が可笑しくて、わたしは今度こそ思いっきり笑ってしまう。
「だって……ふふふ」
「ふふふ?!」
 金切り声になった。
「ごめんなさい。だって、辻さん……わたしのこと心配してくれてたんだ?」
「――なっ」
 小鹿みたいな彼女の瞳が見開かれる。
 カールしたまつげの一本一本に塗られている、こっくりとしたボルドー色のマスカラまで見えた。
「わたしがワガママなアメリカ人の餌食になってるんじゃないかと思って、それで忠告してくれてたんでしょ?」
 がたん、と音をさせて彼女がロッカーに片手をつく。
「夏木さん、あなたね」
「なあんだ、そうだったんだ。心配しなくても大丈夫なのに」
「だれがあなたの心配なんか」
「じゃあなんだろう?」
「なんだろうじゃないですよ」
「もしかして――くやしいの?」
 迅一郎の言っていたことを思い出した。
 ――たとえ簡単な言葉でも、幼くても、偏ってても、それはダメだなんて言う権利はだれにもない。
 どんな考えを持とうと多佳子の自由だし、それを遮るのも曲げるのも多佳子だけができることだ――
 そう。
 どんな意見を持っていても、それは辻さんの自由。
 彼女の意見をとりさげることも、変えることも、無理にすることじゃないんだ。
 わたしにできるのは、わたしが感じたことを言うだけ。
 そしてそれは、辻さんにごちゃごちゃ言われる次元のことでもない。
 そう考えると、ダメージなんて考えていたほど大したものじゃないかも、と思えてくるから不思議だ。
「わたしの好きなひとは、きっとあなたが思い描いてるようなひとじゃないわ。もー、すっごく面倒だし心配性だし学校で命を削ってるみたいな生活してるし、若いくせになんだかやたらと苦労してるし」
 そう言ったら明らかにぎょっとされた。
「若い男をたぶらかしてるわけ?」
「あの、辻さんの論理から言うと……たぶらかされてるのはわたしの方なんじゃないの?」
「……わたしは『つけこんでくる』って言ったんですよ」
「そうそう。エラそうで貪欲で自信家でね」
「ちょっとなに言ってんですか。そんなこと言ってませんよ?」
「でも実際そうなのよ。だから――わたしがいうとおりにならないくらいで揺らぐようなプライドの持ち主じゃないと思う」
 辻さんが押し黙る。
「どっちのほうが上だとか下だとか、勝ちとか負けとか。この世界には線が引けないような曖昧なこともあるってこと、日本人が教えてあげなくてどうするの?」
 見ていた彼女の眉がゆがんだ。
「ああやだ、本当だわ……わたし、なんだか誤解してたみたい、あなたのこと」
 おおげさに額を押さえて、辻さんが軽く頭を振ってみせる。
「夏木さんて、見上げた神経の持ち主だったんだ」
「……ありがと」
「ほめてません!」
 今度は眉がつりあがった。
「救いようのない脳天気ね」
 苦い笑みを顔にはりつけたままで吐き捨てる。
 くるりと背を向けて資料室を出て行く彼女の後ろ姿に、肩をすくめてやった。
 ……なあんだ。
 けっこう可愛いところもあるじゃない?

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 ドレッサーの前に立って髪を整えていると、背後から腰の周りに両手が伸びてきた。
 鏡に映っているのは、ヴィンテージ色のジーンズとTシャツと、黒い髪。
 何かを企んでいるみたいな、伏目がちな瞳。
 両腕で覆うようにわたしの体を胸に引き寄せ、肩にあごを乗せてくる。
 黙って体をあずけたままでいると気をよくしたのか、耳たぶにくちびるを押しあてられる。
 頬と頬が触れた。
 Tシャツから、穏やかな日なたの匂いがする……ライト家の、ランドリールームと同じ匂い。
「……支度すんだの?」
 身をよじってみたけど、笑い声になってしまった。
 彼はそれに答えない。いま他に集中していることがあるから答えられない、とでも言うように。
 黙ったままで、今度は首筋に移動する。
 くちびるが首筋をなぞって鎖骨まで下り、また耳たぶまで戻ってきたところで、手のひらでやんわりと頬に触れてやった。
「ね、そろそろ出ないと」
 不本意ながら、という感じでくちびるが耳たぶから離れてゆく。
「ごめん、これ返す」
 フックの先に小さな王冠がついたピアスをつまんでよこした。くちびるについていってしまったらしい。
 笑ってそれを受けとった。
「シカゴに、引っ越してくればいいのに」
 迅一郎は、まだ笑ったままのわたしに言った。
「そんなこと……簡単にはできないでしょ。ムリだわ」
「ムリなんかじゃないよ。ビザ取ればいいんだし」
 話しながらフリースのプルオーバーに袖を通し、頭からかぶる。
「ビザ?」
「そう。俺アメリカ国籍なんだよ? 多佳子が合法的にビザを取れる方法だってちゃんとあ――」
「イヤ!」
 自分でもぎくりとするほど声が荒くなった。
「うわ、そんなハッキリきっぱり断わられると……いまここで人生終わりそうなんだけど」
 がっくりと首を垂れて、お別れの前はもうすこし優しくしてほしいよなー、とかつぶやいている。
 ……だって。
 そんなふうに、あなたの立場を利用するような方法は。
 きっと自分で自分が許せなくなりそうで。
 いやなんだもの。
「はああ……これから大雪になって、成田発の飛行機全部キャンセルになんないかなあ」
 迅一郎はしょんぼりしたままドアに向き直った。
 その瞬間。
 ……彼の背中を目にした時の気持ちが何だったのか、自分でも説明がつかない。
 手放したら消えてしまいそうな気がした。
 いつかどこかで見た彗星のように、近づいては、また離れてゆく。
 次に会えるのはいつになるんだろう?
 そう思ったら、この後のことに考えをめぐらせる余裕なんか吹き飛んで。
 両腕が伸びて白いフリースの背中を抱きしめていた。
「帰らないで」
 一瞬動きが止まる。
 それで、はっとした。
「ごめん。いまの――聞かなかったことにして」
「は?! ちょっと待った」
 半分笑いながら迅一郎がふり返った。両手をつかんでわたしの顔をのぞきこむ。
「なに言ってんだよ? こんな大事なこと聞きのがせるかよ」
「知らない知らない」
「もう一度言って」
「イヤ」
「なんで? 言ってくれたら、そのとおりにするから」
「だって、学校、始まっちゃうよ?」
「クラスをカットするなら初日にかぎるだろ。学生の常識」
 そんな。
 やだ、目が真剣すぎて怖い……なに言いだすのよこのひとは。
「なあ、頼む。もう一回言って」
 ゆっくり手首を離して腕をまきつけてくると、わたしの後ろで両手を組んだ。
 がっちりと。
 気持ちごと捕らえるように。
 あっというまに逃げられなくなった。
 わかってる。
 こういう時の迅一郎はぜったい引き下がらない。
 どうすればわたしが甘やかしてくれるのか、ちゃんと知ってるんだ。
 子供っぽいけど、確信犯で。
 わたしはそんな彼の腕の中で、しかたなくひとつ息をつく。
「――帰らないで」
 ひどい早口になった。
「え? ごめん、俺まだヒアリングがマズくてさー」
「もう、どうしてそういうこと言うの!」
 右手で肩のあたりを殴ってやる。
「ほんとだって。もっとゆっくりしゃべってくれないと聞き取れない。テレてる時の多佳子は――とんでもなく早口だから」
 宝箱をのぞくときのような瞳で見入られた。
 また、怖くなる。
 この瞳で見つめられると怖くなる。
 胸の中でひっそりと大切にしてきた気持ちなんか、簡単に口をついて出てしまいそうになる。
 ずきずきと痛いほど鼓動が早くなったせいで視界が揺れた。
 その揺れにからめとられまいと、彼の肩に両腕を回して頬を寄せ。
 だれに教わったわけでもないのに浮きあがってきたような、熱い心のかけらをつぶやく。
 ずっと、そばにいて。
 帰したくない。
 あなたを帰したくない。
 このままさらってしまいたい――。
 迅一郎がひとつひとつにうなずく。
 全部自分の口からこぼれた言葉だなんて、わたし自身がいちばん信じられない。
 Yes, take my whole life――命ごと捧げるよ。
 キスの前にそんな厳かなささやきが落ちてきて、わたしは目を閉じた。

 

「……なあ、迅くんてさー、流暢だと思ってたけどやっぱ日本語の使いかたヘンだよなー」
「え?」
 1月から始まった冬学期の初日をサボらせてしまった、その罪の意識もまだ冷めやらない水曜日の朝。
 お父さんがダイニングテーブルでいつものように新聞を広げながら、ぽつりとこぼした。
 もう……食べながら新聞読むのはやめてって言ってるのに。
「帰る前に言ってったんだよ」
「なにを?」
「『多佳子のこと、よろしくお願いします』だって……なんだよなー、もう俺の女房だぜみたいな言いかたしちゃってさあ」
「にょ」
 ――女房?!
 ちぇ、と言いながら。
 お父さんは、だだっ子みたいにくちびるをとがらせた。

 

 

>>NOVELS >>INDEX >>BACK >>NEXT